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2025/09/20

石田三成「大義を思うものは、たとえ首をはねられる瞬間までも命を大切にして、なにとぞ本意を達せんと思う。」

石田三成「大義を思うものは、たとえ首をはねられ瞬間までも命を大切にして、なにとぞ本意を達せんと思う。」

こんにちは。
クールペイです!
 
私は戦国武将が好きなのですが、石田三成(いしだ・みつなり)は好きな武将の一人です。
彼の忠義を重んじる生き方はとても美しくかっこいいです。
 
今日は、そんな石田三成について、私が好きなエピソードを紹介させて下さい。
 
 

石田三成はどんな人?

 
石田三成は1560年〜1600年に生きた戦国武将の一人です。
この、1600年という年に見覚えがある人も多いでしょう。
 
そうです!
関ヶ原の戦いがあった年ですね。
 
彼は徳川家康率いる東軍に対して、西軍を率いるリーダー的な立場で戦い、そして負けて処刑されました。
 
豊臣秀吉の側近として仕えていた石田三成は、豊臣秀吉没後もその忠義心は固く、天下を奪おうとする徳川家康をどうしても許すことはできず西軍を蜂起した。
 
そして、負けた。
 
 

西軍を一大勢力にしたたった19万国の中堅武将

西軍のリーダーとして立った石田三成でしたが、
武将としての権力はさほどでもありませんでした。
 
彼の領土は、近江(滋賀県)の佐和山城を中心にした約19万石。
 
それに対して、徳川家康は250万石。
毛利輝元は120万石。
 
これらに比べると、せいぜい中堅クラスというところです。
徳川家康と比べたら10分の1以下。
 
そんな石田三成が、家康打倒と西軍を結成できたのはなかなか考えられないことです。
だって、自分よりも強い勢力をもった武将を含めて指揮をとるわけですから、普通じゃできません。
 

しかし、石田三成はやってのけました。

 
豊臣家に対する強い忠義。
その想いを伝えて周囲を巻き込むプレゼン能力。
 
この2つが彼の武器だったのだと思います。
 
もともと、豊臣政権の「五奉行」として行政手腕を発揮していましたので、今の官僚のように頭脳明晰であったことは間違えありませんし、様々な人の立場に立って物事を見る視野の広さもありました。
 
結果的に西軍は、約10万の兵力を集めました。
毛利輝元、島津義弘、宇喜多秀家ら大物を巻き込んで勢力を増していきました。
 
相手の心を掴む力が彼にはあったのだと思います。
例え、自分自身は小さな力しか持ち得ていなくても、熱い心があれば、それをしっかり伝えることができれば、なにかを動かせる…そう思わせてくれるのが石田三成です。
 
 

生き様以上に死に様がかっこいい石田三成

 
石田三成のエピソードを調べると、忠義に真っ直ぐに生きた彼の生き様には多くの魅力を感じることと思います。
 
石田三成は生き様はもちろんかっこいいし魅力的なのですが、私は関ケ原の戦いで負けたあと、処刑になる寸前の石田三成がなんともかっこいいと思っています。
 
関ケ原の戦いで負けたあと、彼は京都の街を引き廻しされていました。
市中引き回しってやつですね!
 
惨めさを周囲に見せしめ、徳川家への畏怖を大衆に植え付けたかったのだと思います。
そんな死を待つのみだったボロボロの石田三成。
 
ある日、彼は警護の者に言いました。
「喉が乾いた」
 
警護の者は水を持っていなかったので、代わりに干し柿を差し出しまいた。
すると三成は「干し柿は痰の毒であるから食べない」と言って断ったのです。
 
警護の者はそれを聞いて笑いました。
「これから処刑されるのに健康を気にしてどうするの?」
 
その時、彼は、言ったんです。
 
「大義を思うものは、たとえ首をはねられる瞬間までも命を大切にして、なにとぞ本意を達せんと思う。」
 
この言葉、ゾクゾクしませんか?
だって、市中引き回しされてまもなく処刑されるのに、もう希望なんてどこにも無いはずなのに、全然、心が死んでないんです。
 
こんな状況であっても、石田三成は、大義を達成するために、つまりは将来への希望の為に、自分をベストな状態に保っていたいと思っているのです。
 
つまりは、、、
こんな絶望的な状況の中でも前を見てるんです。
 
 
結果的に、彼はまもなく処刑されました。
しかし、彼はきっと、死ぬ寸前まで大義を抱き続けていたことと思います。
 
…優位な地位にある時は、誰しも理想的な自分でいられます。
しかし、劣勢に陥り、それが絶望的な状況であったらならばどうでしょうか?
 
どんな状況下であっても、大義を忘れずに前を向いていたい。
石田三成のことを思うと、そう思わずにはいられません。