2025/10/17
徳川家康 武力ではなく待つ力で戦国時代を勝ち抜いた天下人
クールペイです!
今日は徳川家康について私なりな観点で書きたいなって思います。
徳川家康は、ご存知の通り関ヶ原の戦いで勝利して、その後、260年に渡る江戸時代を築き上げました。
しかし、彼が戦国時代を勝ち抜いたのは武力ではなく待つ力でした。
徳川家康の人生は我慢の連続から始まった。
1543年(天文12年)。
徳川家康は、竹千代と呼ばれる6歳の少年だった。
父を早くになくした竹千代は、今川義元の人質として駿府に囚われていた。
想像してみると凄い話ですよね。
6歳といったら、小学生なりたてくらいのお子様が、敵の城で軟禁生活を強いられていたわけです。
天下統一の夢どころか、自由さえもままならない毎日にあった徳川家康だったがこの時の毎日は決して無駄ではなかった。
武田信玄と机を並べて学問を学んだ日々
徳川家康は、今川家の家臣たちと机を並べて学問を学んびました。
そのなかには、あの武田信玄もあったのでした。
人質として囚われる日々のなかで、徳川家康は剣の稽古より学問を優先。
巧みに人の心を読む徳川家康の基礎はここで築かれたのだと思います。
約10年。
家康は学問を学び時を待ちました。
虎視眈々と…。
今川義元が討たれて独立するが…
徳川家康19歳。人質生活13年目。
徳川家康に転機が訪れました。
今川義元が、桶狭間の戦いで織田信長に討たれたのです。
徳川家康はこれを契機と判断し、一気に岡崎城へ凱旋。
独立を果たしました。
そして一気に天下人への階段を駆け上り…というわけには全然いきませんでした^^;
むしろココからが本気モードの我慢大会。
武田信玄にボコボコにされて壊滅寸前に…
独立した徳川家康は、信長の同盟者として三方ヶ原の戦い(1573年、31歳)で武田信玄とやりあうのですが大惨敗してしまいます。
武田信玄の鬼神の如く恐ろしい形相に恐怖した徳川家康が「う◯ち」を漏らしてしまった逸話は有名でございます。
軍は壊滅寸前の状態。
武田信玄に追い回される日々。
家臣の多くは離反。
泥まみれで逃げ惑う屈辱の日々。
仲間だった織田信長にさえ「家康はもう終わりだ」と陰口を叩かれていたという。
でも、幼い頃から我慢を強いられてきた家康はこんな状況でも諦めませんでした。
もはや、戦うではなく馬を捨てて木の根をくわえ土にまみれて耐えた。
そんな彼をみっともないという人は多いと思います。
でも、私はそんな状況でも生きようとしている彼がかっこよく思えます。
劣勢であっても決して諦めずに戦う。
それは、とても立派なことです。
徳川家康の最大の武器は待つこと。
敗走の日々のなか家康はひたすら待ちました。
明確な「何か」を待っていたわけではなかったと思います。
でも、とにかく待ったんです。
そう。
いつか訪れる逆転の瞬間を。
根拠もなく待ち続けることの難しさを私は知っています。
多くの人は心が折れてしまうほど難しいものです。
でも、徳川家康はそれができる待つ力がありました。
まさに、我慢の天才であったんだと思います。
そして、その瞬間はとうとう訪れました。
武田信玄の死…。
武田信玄の死後。
急激に弱体化した武田家。
その隙をついて徳川家康は、一気に三河・遠江を固めました。
信念をもって待つ力。
そして、待ち続けた末に訪れたチャンスを確実に掴む思い切り。
これが、徳川家康の恐ろしさだと思います。
その後も我慢の連続が続く徳川家康
武田家を打ち倒して復活を遂げた徳川家康。
しかし、その後も我慢の日々は続きます。
織田信長の家臣時代。
待遇はあまり良くありませんでした。時には「家臣の家臣」のような立場にもされました。
でも、文句一つ言わずに時を待ちました。
きっと、織田信長の苛烈な気質を知って、いつか、時が来ると考え、それまでは得意の我慢をしていたのでした。
豊臣秀吉の家臣時代(1580年代〜)
本能寺の変で織田信長が討ち死にした後は豊臣秀吉に仕えました。秀吉の天下統一に協力し、1590年には小田原征伐で北条氏を攻め落とすという功績を残すが、秀吉からの報酬は関東8カ国。当時の関東は「とても辺鄙な土地」でしたから左遷みたいな扱いでした。
関東開拓自体(1590年代〜)
豊臣秀吉の策略により京都から遠ざけられた徳川家康でしたが、不満を漏らすことなく、江戸の湿地帯の開発に心血を注ぎました。江戸城を築き、港を整備し、静かに基盤を固める。
いつかくる、その時までに江戸を根気強く整備したのでした。
豊臣秀吉の死(1598年)
徳川家康58歳。とうとうその時がきました。豊臣秀吉がいなくなったことで天下統一に手が届くところまできたのです!
その時の徳川家康は確かな力を持っていました。
しかしそれでも彼は待ちました。
引き金(きっかけ)は自分で引くのではなく、、
関ヶ原の戦い(1600年)
石田三成。彼は、豊臣家の家臣として忠誠心の強い義のある武将であった。そんな彼は、豊臣秀吉死後、勢力を伸ばす徳川家康に対して嫌悪感を感じていた。
豊臣家を守らなくては…そんな想いで、石田三成は関ケ原の戦いに挙兵した。
しかし、皮肉にも、この挙兵こそが、徳川家康の待ち続ける人生の集大成となってしまう。
…その後は知っての通り。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は天下統一を果たします。
信念をもって待ち続けること。
それは強さなのかも知れません。